私の故郷、岐阜市鷺山には、郷土の生んだ文学者「森田草平」の文学碑とその東には「道三塚」がありますので、今回はその紹介です。
Ⅰ 森田草平文学碑
「略 歴」: 草平は東京帝国大学英文科を卒業後も、漱石に師事し、漱石門下生の中でも、安部能成、小宮豊隆、鈴木三重吉とともに四天王に数えられました。平塚雷鳥との心中未遂事件をもとにした「煤煙」で小説家として認められるようになり、以後は次第に翻訳にも力を入れ、下記のように多数の外国文学を訳して紹介し、翻訳の先駆者の一人として活躍しました。40才で法政大学の英語教授になり、44才で自伝的長編小説「輪廻」を書き上げています。漱石亡き後は、岩波の「夏目漱石全集」の編集に、小宮豊隆とともに実質的責任者として係わりました。そして自らを漱石の“永遠の弟子”と、評伝「夏目漱石」では明言しています。その後、戦争で東京の自宅は焼失、すべての書物を失い長野飯田市へ疎開。1949年(昭和24年)69才で亡くなりました。
「翻訳書」:ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」、トルストイ「アンナ・カレーニナ」、ゴーゴリ「死せる魂」、「アラビヤ夜話」、ボッカチオ「デカメロン」、ディケンズ「クリスマス・キャロル」、イプセン「鴨」、セルヴァンテス「ドン・キホーテ」、ゲーテ「ウイルヘルム・マイステル」、ダンヌンツィオ「快楽児」「犠牲」など。 その他著作:「初恋」「十字街」「吉良家の人々」「夏目漱石」「細川ガラシャ夫人」「四十八人目」など。 この「輪廻」は作者が解題で次のように述べています。「最も多く力をいたしたのは、…両性間の横の関係よりも、縦の関係、即ち親子の関係であった。子から見た親ー両親の間のさまざまな経緯、その経緯の子供の心に及ぼす影響というようなものが書いて見たかった」と。 次に、この文学碑から東南東約700mの位置に道三塚があります。 長男義龍(実は美濃守護:土岐頼芸の子ともいう)に敗れた斉藤道三の首塚は最初、河原にあったのが、たびたび水に流されたのを常在寺の日椿上人が、1837年に現在の地に碑を立てて弔ったとあります。岐阜大仏(岐阜公園横)すぐ西の菩提寺・常在寺には、道三の肖像を描いた掛け軸が残っています。
この厚さ60~70cm位の文学碑には、主著「輪廻」から
次のような一節が刻まれています。
「稲葉の山は、こゝから見ても、矢張り美しい金字形をして、
一際黒く雲際に聳えてゐた。 ………… 」
話の内容は、学生である主人公迪也が東京から郷里鷺山へ帰郷中、従妹の小夜子と駆け落ち事件を起こした後、母親お繁から自分の出生の秘密を聞き出し、愕然とし、驚愕するというものです。縦(血脈関係)と横(村の因習とか人間関係)のしがらみの中で苦悩する主人公の心の起伏や葛藤が、そこかしこで描写されているのは、翻訳などにも係わったというドストエフスキーの影響を、多分に受けたものと推察されます。
草 平 庵
草平の墨跡です “愚は山を移す” Ⅱ 道三塚